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第14話 真実は未遂、証拠は既遂

last update Huling Na-update: 2025-12-11 18:58:35

 鴨川の冬の風が、水面を静かに揺らしていた。

 言葉の途切れた空白だけが、二人の間に落ちている。

 七年前、胸に刺さったまま固まっていた何かが、

 ようやく溶け出すみたいに、息がうまくできなかった。

「……朱音」

 呼ばれた名前が、昔のままだった。

 反射的に、心が揺れた。

 晴紀の呼吸が、ひどく近くなる。

 晴紀の胸にもう手が触れているのに、その上の空気まで震えた。

「さっきの話……全部、嘘じゃない。

 本当に……お前だけを、ずっと……」

 言葉が、喉でつかえる。

 それでも、彼は私の頬に触れようと、ゆっくり手を伸ばした。

 触れた指先は、驚くほど熱かった。

(……やめて)

 そう思ったのに、身体は動かなかった。

 七年前からずっと凍っていた場所に、火がつくようだった。

「朱音……」

 名前を呼びながら、晴紀の額がそっと私の額に触れる。

 吐息が重なる。

 視界が滲む。

(だめに決まってる)

(七年前とは違う)

(ずっと憎み続けてきたのに)

(彼は既婚者で、しかもクライアント)

 本来なら、この四つだけで拒めるはずだった。

 なのに──喉が、動かない。

 胸が一度強く跳ね、呼吸が浅く震え始める。

 足だけが地面に縫い留められたように、微動だにしない。

(……やめて)

 そう思ったはずなのに、胸の奥が別の声を上げる。

 今すぐ抱きしめてしまいたい。

 責めてもいい、慰めてもいい──あの頃のふたりに戻れたなら。

 七年前、私だけが傷ついたと思っていた。

 けれど、彼も同じ場所で立ち止まり、ずっと苦しんでいたのかもしれない。

 冬の風が髪を揺らす。

 その隙間から、昔と同じ温度がそっと近づいてくる。

 ゆっくりと、触れない距離まで。

「……キス、してもいいか」

 わずかに掠れた声だった。

 拒む言葉は喉まで上がっているのに、そこから先に出てこない。

 心臓の音だけが、耳の奥でひどく大きい。

(……どうしよう)

(やめなきゃいけないのに)

(身体だけが、動かない)

 吐息が触れる距離。

 唇が、あと数ミリ。

 心臓が、壊れそうに跳ねた。

 ブー。

 スマホが震えた。

 私は息を呑み、そっと後ろへ下がった。

 画面には「D」の名前。

 迷う暇もなく、通話が勝手に繋がったように感じた。

『……朱音?』

 低くて落ち着いた声。

 でも、いつもよりわずかに速い呼吸が混じっている
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